日本基督教団 久万教会
☆モーセ五書からのメッセージ・リンク(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)
| 得ること、捨てること | 創世記12章1〜9から |
あなたは生まれ故郷を、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。(創世記12章1) | |
安定した生活を送っていたアブラム(後のアブラハムと呼ばれるイスラエル民族の祖、信仰の父と呼ばれる)に、神の言葉が届きました。その言葉は、知らない土地に移住せよと、いう命令でした。その言葉は、それまでに築いた有形無形の財産を捨てることを意味していました。自分の歩んできたその生き方を否定することも意味していました。アブラムの年齢(聖書には75歳と記される)では、失敗するともう人生をやり直すことは出来ませんでした。 信仰とは何かを得るところから始まることはありません。捨てるところから始まります。人間の思い(こだわり、わずらい)を捨てること、そのポッカリ空いた心の真ん中に神を置くところからはじまります。そして、それだけで完成するのです。 アブラムはこの後、新天地での生活を祭壇を築くところから始めました。礼拝を生活の中心に置くことから新しい日常をスタートさせたのです。アブラムが「信仰の父」と呼ばれる所以です。 | |
| 『わたしたちの根』 | 創世記23章1〜4から |
わたしはあなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、 あなたがたの所有する墓地を譲ってくださいませんか。 (創世記23章4) | |
信仰の父と呼ばれたアブラハムは、神の言葉を信じて旅を続けていました。神はアブラハムに土地を与えると約束していましたが、既に老齢になっていた彼に、まだその土地は与えられていませんでした。そのため、妻サラを亡くした時、土地を持たないアブラハムは、彼女を葬る墓所を探さなければなりませんでした。 アブラハムは、このときパレスチナの住人の中でも有数の財産を築いていました。けれど、いくら財産があっても、「よそ者」であるがゆえに、妻を葬る場所を持つことが出来ませんでした。自分が根ざす土地を持たないことから来る不幸でした。 わたしたちは何を得るために生きているのでしょうか。財産でしょうか、名声でしょうか。神の国に帰るとき、そんなものは何の役にも立ちません。問題はどこにわたしたちの根を張るかなのです。アブラハムは、土地ではなく神様の言葉に根を張り、この後「道」を示されます。わたしたちがどこに根を張るのか、それでわたしたちの生き方も自ずと変えられていくのです。 | |
☆歴史書からのメッセージ・リンク(士師記、サムエル記、列王記など)
| 共に苦しむ | 士師記10章6〜18から |
| 主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった。 (士師記10章16) | |
わたしたちの神様は、手の届かない高みから投網<とあみ>を投げて、私たちを救い上げられる方ではありません。わたしたちと同じ高さまで降りてきてくださり、わたしたちと一緒に悩み苦しんで下さる方なのです。私たちよりさらに低いところまで下りる覚悟を貫き、救いの道を開いてくださる方なのです。 最愛の一人子を贖い<あがない>(注参照)の供え物とされた神の決断、主イエスの十字架の苦しみは、神が一緒に悩み苦しまれることを象徴しています。それが、私たちを救われた神の愛なのです。 注「贖う」 本来は、奴隷などを、適当な代価で買い戻すこと。キリスト教では、イエスキリストの生命を代価として、神がわたしたちを罪から買い戻した(私たちの罪は赦された)と考える。 | |
☆預言書からのメッセージ(イザヤ書、エレミヤ書、ホセア書、アモス書など)
| 「先ずこちらから」 | ヨエル書3章1〜5から |
主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。 (ヨエル書3章5) | |
わたしたちは、日常の生活の中で、神様の働きに鈍感になってしまいがちです。けれど、主イエスはそんなわたしたちに、霊(注参照)を与えて下さると約束されました。神様の霊が降されることによってわたしたちは、神様の言葉を聞いて理解し、語ることができるようになるのです。ちょうど最初のイエスの弟子たちが、主イエスのことを突然、証し始めたように・・・ 神の霊が与えられるための条件は、ただ一つしかありません。主の御名を呼ぶことです。こちらからも、呼ばわらないと神様との間に関係を築くことはできないからです。 注「霊」 聖霊ともいう。神のひとつのペルソナ(位格)。わたしたちの神様は、父なる神・イエスキリスト・聖霊の三つの「顔」で私たちに関ってくださる。これが三位一体。天に帰られたイエスキリストが私たちの助け主として与えてくださったのが聖霊。 | |
| 「頑張らなくても」 | イザヤ書5章1〜7から |
わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。 (イザヤ書5章4) | |
人間と神様の関係を、ブドウとブドウを作る農夫にたとえています。農夫は一生懸命にブドウを育てました。けれど、良いブドウは、なりませんでした。最善を尽くしたのに、どうして良い実がならないのでしょうか。ブドウの木の、つまりわたしたちの資質になにか問題があるのでしょうか。 私たちだって、「良いブドウ」になろうと努めています。私たちなりに頑張ってはいます。けれど、最後はどうしても,神様との関係よりも自分の都合を優先してしまいます。人間は、本当は必要でないもの、捨てなければならないものを捨てきることができないからです。 そのため、わたしたちはどんなに神様のことを考えていても、本当の「良いブドウ」になることができないのです。この世で生きていく中で、どうしても神様の思いとずれが生じてしまうのです。結局、わたしたちは神と本当に正しい関係を築けないのです。神のひとり子が、十字架についてくださったのは、それを解消するためだったのです。 イエスキリストが神の右でいつもとりなしの祈りをしてくださっている。だから私たちは、神様との関係を保ち続けていられるのです。キリストの十字架のおかげで、無理に頑張らなくても良くなったのです。失敗しても、落胆しなくてよくなったのです。 | |
| 信仰者の『不従順』 | ホセア書1章〜3章から |
| わたしはあなたととこしえの契りを結ぶ。 (ホセア書2章21) | |
後に預言者として立てられるホセアは、神様の言葉に徹底的に従順でした。神に言われるままに、望まぬ女性を妻として迎え、3人の子供たちに呪いの名前をつけました。その結果、彼の生活は破綻し、不幸なものとなりました。 神に盲目的に従うだけでは、わたしたちは決して幸せではありません。神に「何故?」と問いかける中で、わたしたちは神様の本当の御旨<みむね>を知ることが出来るのです。問いかけの中で、一人子イエスを十字架につけてくださった神は、わたしたちの人生にまことの愛をもって、真摯<しんし>に関わってくださるのです。神に「素直」に聞き従うだけの生活は、窮屈なだけで、決して信仰者のあり方とは呼べないものなのです。 後にそのことに気付かされたホセアは、預言者として立てられていきます。彼は「愛の預言者」と呼ばれ、神のために働きました。 | |