日本基督教団 久万教会



聖書短信(デジタル版)

新約聖書からのメッセージ

☆共観編(マタイ、マルコ、ルカ各福音書と使徒言行録から)

「捨てられた石」ルカによる福音書20章9〜19から

家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。

                                  (ルカによる福音書20章17)

わたしたちの信じる救い主は、家を作る人が、使い物にならないと、捨てた石でした。けれど、貧弱だと捨てられた石が、家の大黒柱のように、実は一番大切な働きをする、なくてはならない石でした。

わたしたちの社会は効率を大事にする世界です。けれど、神の目から見てその判断が正しいかどうかはわかりません。ちっぽけなもの、遅いもの、醜いもの・・・私たちが劣っていると考える判断は、人間が作った基準によるものなのです。ですから、私たちが切り捨てるものの中に、神様の目から見て、本当に貴重なものがあるのかもしれません。

人間社会が認めなかったもの、人のものさしでは全く価値のないとされたものが救い主だったのですから。

『他人の上に、他人の下に』マタイによる福音書20章20〜28から

偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

        いちばん上になりたい者は、の僕〈しもべ〉になりなさい。

(マタイによる福音書20:26-27)

イエスの弟子たちは皆、普通の人間でした。ですから、例外なく「偉くなりたい」と思っていました。そんな弟子たちへの、イエスの言葉です。キリストは「謙遜し、へりくだれば人の上に立てる。」と言おうとしたのではありません。キリストは道徳教師でも、カルトの教祖でも、どうすれば人から尊敬されるようになれるかを教えるコンサルタントでもありません。辛抱して他人に仕えて救われるのならば、永遠の命を得るための、それほど簡単な手段はないでしょう。他人の僕になるだけで、心の平安が得られるのなら、その道を選ぶ人も、少なくは無いでしょう。けれど、キリストの救いはそんなに浅薄なものではありません。キリストは決して、「無条件に他人に仕えなさい」と言っているのでは、ないのです。

他人に仕える前に祈る。それが大前提です。祈ることなく仕えることを強要されると、心の中で相手を裁きつつ見下すか、人格を放棄するだけでしょう。キリストは人間を上下で考えるのではなく、神を中心に考え、祈る者でした。だから十字架の上で殺されるという、最大のへりくだりをわたしたちに示すことが出来たのです。だから「下」の者にも仕えることが出来たのです。

「権威を拠り所として」ルカによる福音書20章1〜8から

その権威を与えたのは誰か。    (ルカによる福音書20章2)

イエスの宣教を、国家の体制を覆すものと考えたユダヤの指導者は、イエスに詰問します。「何の権威によって」イエスは神の国を宣べ伝えるのかと。

指導者は、イエスがこの世のどんな権威によって行動をしているのか、訊ねました。この世こそ彼らの権威の拠り所だったからです。けれど、イエスの拠り所は天にありました。拠り所というよりもイエス自身が権威そのものでした。指導者の問いは、本質的に空しいものだったのです。

人間は日々を生きていく時、何かの価値を拠り所として生きています。わたしたちが、この世の価値観を拠り所とするのか、福音を拠り所とするのか、それはわたしたちがどんな権威を尊重して生きているかによって変わります。実は権威には、二種類しかありません。人間によって作られた権威と、この世の始めから存在する権威です。私たちは自らの決断をもってどちらかを選ばなければならないのです。

『人間の思いを越えて』ルカによる福音書2章1〜7から

ルカ伝のクリスマスの記事の最初の1節です。皇帝のこの勅令により、イエスの両親は先祖の故郷であるベツレヘムに旅をしなければならなくなりました。出産を控えた身重のマリアには、本当に辛い旅であったことでしょう。「パックスロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれるローマ帝国の統治を確立し、ソーテール(救い主)とも呼ばれた皇帝アウグストゥスの勅令ですが、マリアとヨセフの境遇を見るだけで、「平和」も「救い主」も空しく響いてきます。

けれど、もしもこの勅令が出されていなければ、イエスはガリラヤで生まれていたことでしょう。ダビデの町(ベツレヘム)で、キリスト(救い主)が産まれるという、旧約聖書以来の約束が空しくなくなってしまうところでした。

神はわたしたちから見て、「敵」としか思えない人間をも、そのご計画の中で利用されます。背後にある神の意思からすると、人間の意図がどうであろうと関係ないのです。その不思議な救いの中にわたしたちは置かれているのです。

「信仰の形」マルコによる福音書5章25〜34から

病気によって、「けがれた」者とされ共同体に加われない婦人は、その病気を治すために、財産に頼り、医者にかかりました。けれど、この世のものに頼っても、状況はますます悪くなる一方でした。結果、すべての財産を使い果たしました。

この世では、人間の最後の頼みの綱は財産かもしれません。彼女はそれにすがり、すべてを失いました。彼女が愚かだったのではなく、彼女の悩みは、財産という「最後の切り札」を放棄してもよいほど大きなものだったのです。

イエスのうわさを聞いたこの女性は、万に一つの可能性にかけて行動を起こし、イエスの服に触れました。イエスはその行為を、この女性の信仰として彼女をほめました。

信仰というものは、お決まりの形だけではありません。わたしたちが神様と関係を築くこと、それはどんな形をとったとしても、信仰なのです。


 『まことの神の国、まことの救い』ルカによる福音書17章20〜21から

神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカによる福音書17章21)

多くの宗教では、救いはわたしたちの知らないところからやってくると教えます。信じるだけで良いもの、修行を要するもの、辛抱を強いるもの、救いへの教えは無数にあります。キリスト教を名乗る教えの中にも、救いは現実の生活と異なる世界のものだと教えるものがあります。彼らは終末の日に、まことの救いが来ることを強弁します。わたしたちの日常を放棄することや、耐えることを救いの条件としているのです。

主イエスの伝える救いは、そうではありません。わたしたちの日常の生活の中にこそ、神の救いがあると言うのです。クリスマスに、主イエスは家畜小屋で産まれ、飼い葉桶の中に寝かされました。この時、この赤ん坊の中に誰が救い主の姿を見たでしょうか。

救いは、実はわたしたちが想像出来ないところにあるのです。「青い鳥」(メーテルリンク)の物語のようなものかもしれません。今日一日の歩みの中に、神のまことの救いがあるのです。この世の生活の中にこそ、主イエスの教える救いがあるのです。

「癒しの奇跡の前に」マルコによる福音書3章1〜6から

イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われた。

                                        (マルコによる福音書3章3)

身体の障害はその人や先祖の「罪」が原因だと考えられていた時代の話です。身体の障害によって、「罪」の人として町の人からさげすまれていたと思われる人を、主イエスは聖なる会堂の中央に立たせたのです。その人がもし本当に「罪」の人であるのなら、神にも人にも絶対に許されないことを、主イエスは平然と行われました。そしてその場所で、キリストは癒し<いやし>の奇跡を起こされました。

会堂の真ん中に立たせたのは、キリストの癒しのわざを人々に見せつけるためではありませんでした。主イエスの癒しは、医者による治療ではありません。自信を持って生きることが許されなかった人を、まずひとりの人間として処遇する。そこからキリストの癒しは始まるのです。それゆえに、キリストの癒しは、病気やケガの治癒のような、一時的なものではありません。

 『マリアの謙遜』ルカによる福音書1章26〜38から

  わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。

                             (ルカによる福音書1:38)

この聖句は、主イエスの受胎を告げられた時の、マリアの答えです。「はしため」とは、もっとも身分の低い下女のことです。マリアは、このとき神様に対して、過剰とも思える謙遜を示し、その後で天使の告げる処女懐胎を受け入れました。

実際には、神様に対して謙遜しすぎるなどということはありえません。人間にとっての神は、それほど絶対的な存在なのです。その神と、人格的な関係を築くところから、人間として〜神に創られた者として、真に生きることが始まります。正しい関係を築くためには、相手を尊重すること=謙遜することから始めなければなりません(それは人間同士の関係と同じことです)。

けれど、わたしたちの神はへりくだりを要求するだけではありません。わたしたちは、人間よりも先に神様がへりくだられたことを知らなければなりません。神のひとり子が、人間の姿をとってこの世に来られたことが、究極の謙遜なのです。それがクリスマスの出来事(キリスト教の救いの原点)なのです。

「捨てること 得ること」マルコによる福音書1章16〜20から

      二人はすぐに網を捨てて従った。

             (マルコによる福音書1章17)

イエスの弟子となった、シモン・ペトロとアンデレの召命<しょうめい>(注参照)の記事です。イエスが、「ついてきなさい」と言ったとき、すぐに二人はすべてを捨てて従いました。

わたしたちは、こだわりの心を持っているため、なかなか「捨てる」ことができません。けれど、大きなものを得るために、小さなものを捨てなければならないことがあるのです。神の愛を知ることで、生命を得ることが赦されるのです。

主イエスの言葉は、「捨てなさい」かもしれません。その言葉の隠された意味は「すべてを得なさい」だということを忘れてはなりません。

※注「召命」 神様から召しを受けて、イエスキリストの弟子、信仰者、伝道者として立てられること 


 『財産と救い』ルカによる福音書18章18〜30から

  持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。

                             (ルカによる福音書18章22)

主イエスに、「永遠の命を受け継ぐためにどうすれば良いのか」と尋ねる議員に対するイエスの回答です。この大金持ちはこのイエスの答えを聞いて非常に悲しんだと聖書には記されています。主イエスはこの直後「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか。」と言われています。

けれど、本当は財産の有無と救いの間には何の因果関係もありません。貧しい人が救われ、資産家が救われないということはないのです。問題は財産を守ることに心を奪われ、生き方の中心に財産やこの世の名声を置くことにあるのです。その「囚われの心」は、仏教で言う「煩悩」のようなものなのかもしれません。

わたしたちの信仰では、他の宗教と違い、自分の努力では、その「囚われの心」を捨て去ることは絶対にできないと考えます。神様に、祈りを通して捨て去ることが出来ないことを告白する。そうすれば、主イエスが代わりに担ってくださる。それがキリストの救いなのです。

「救いとは」マタイによる福音書8章28〜34から

イエスを見るとその地方から出て行ってもらいたいと言った

(マタイによる福音書8章34)

イエスの福音にふれた人の対応は、イエスを受け入れるか拒むかどちらかに分かれます。ほとんどの人は、この世の損得にしか判断基準を置けず、例外なく主を拒みます。

わたしたちの救いは、未来にならないとやって来ないものでも、どこかに行かないと得られないものでもありません。救いは、まさに今いかされているこの場にあるのです。今、救いに入れられない人は、永遠に真の救いを知ることはありません。

主を受け入れるとは、この世の社会の価値に判断基準を置くのではなく、生き方の中心に神様を置くということです。不思議なことですが、そうすることによって、生かされている日常の場で、常に救いに出会うことができるようになるのです。そのためには、神にいつも問いかけることが大事です。問いかけ=祈りを忘れた者には、道はずっと閉ざされたままなのです。

「日常から離れて」マタイによる福音書15章32〜39から

この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、

どこから手に入るでしょうか。      (マタイによる福音書15章33)

イエスに従った空腹の群衆を、わずかなパンと魚で満腹にした奇跡を起こした時の、弟子たちの疑問、問いかけです。人々は、人里離れた所で、主イエスの言葉を聞いていたことがわかります。そこは、集まった人の日常を離れた場所でした。

わたしたちは、日々の喧騒(けんそう)の中で、天からのメッセージを聞くことは出来ません。この世の慌しさに浸っていては、神に目を向けることすらないでしょう。神の声は、心を落ち着け、静かに祈る時、初めて聞こえてくるものなのです。

毎週の礼拝も、日常生活から一歩離れた所で、静かに神の声を聞く場所です。神の声を聞いて、再びこの世へ踏み出す力を得るところです。もし教会が、日常に飲み込まれ、聖なるものでなくなった時、教会は堕落し、その使命を失います。

『不正』な神ルカによる福音書十八章1〜8から

まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、

彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 (ルカによる福音書18章7)

主イエスは、神様を不正な裁判官にたとえられました。この裁判官は、その不正な行いゆえに世間から疎まれていました。けれど、まさにその裁判官が、誰の助けも得られない、弱いやもめのために裁判を行ったのです。やもめのしつこい訴えに辟易<へきえき>として、裁判をすることを思いついただけの裁判官が、結果的にはやもめにとって至高の裁判官となったのです。

わたしたちにとっての神も、同じです。わたしたちの神は、働きに応じた恵みをくださる方ではありません。応分の恵みを与えない神を私たちは「愛」であると考えますが、逆にそれを「不公平」であると考える人がいても、不思議ではありません。

神が「不正」であるか「義」であるか、それを決定するのは、実は神ではなくわたしたち自身なのです。

『足し算と引き算』ルカによる福音書18章9〜14から

     義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、

     あのファリサイ派の人ではない。         (ルカによる福音書18章14)

民から尊敬されていた厳格な信仰者であるファリサイ派の人と、民族の裏切り者として軽蔑され、疎まれていた徴税人が、祈るためにユダヤの聖なる場所に上りました。ファリサイ派の人は、自分がいかに正しい生き方をしているのか、律法(神様から与えられた旧約聖書のきまり)を守れない人と比較してまで、自分のすばらしさを神に訴えました。一方の徴税人は、神に自慢する言葉を見つけることができませんでした。ただ「神様、罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください。」とつぶやくのがやっとでした。

義とされなかった、ファリサイ派の人の問題はどこにあるのでしょうか。彼の生き方は、「あれもした、これもした」という『足し算』の生き方でした。けれどどれだけ『足し算』を繰り返しても、永遠に100点満点には到達できません。一方の徴税人は、『引き算』を繰り返します。「あれもできない、これもできない、私はなんと駄目な人間なのだ」と。けれど、どれだけ『引き算』を繰り返しても、決して0点にはならないのです。

『引き算』を繰り返すことによって、神様の前にちっぽけな自分があぶり出されます。その時初めてわたしたちには、本当の意味で祈ることが赦されるのかもしれません。

「行いと救い」

ルカによる福音書19章1〜10から

だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。

(ルカによる福音書19章8)

 不正な蓄財をしていた徴税人<ちょうぜいにん>(注参照)のザアカイは、主イエスと出会い、それまでの自分の人生を振り返りました。そして全財産を貧しい人々に施すことを約束したのです。キリストはザアカイの救いを約束しました。
 ザアカイが救われたのは、施しを行ったからではありません。彼が救われたのは、財産に執着することの無意味さに気づかされ、悔い改めたからでした。

善行によって救いが約束されるのではありません。執着することの虚しさに気づかされることによって、行いが後から自然についてくるものなのです。

注「徴税人」 祖国イスラエルのためではなく、占領者であるローマのために税金を取り立てる職業。売国奴と考えられていた。


「最大の奇跡」マタイによる福音書21章12〜17から

境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。(マタイによる福音書21章14)

 境内とはエルサレム神殿の領域のことです。「すべての民の祈りの家」(イザヤ書56:7)とされたエルサレム神殿も、身体に障がいのある人が、「健常者」と同じように神を礼拝することは許されていませんでした。身体の障がいは「罪」が原因だと考えられていたからです。
 主イエスは神殿に上られた時、障がいある人々を癒されました。その結果、律法に抵触することもなく、誰の心も傷つけることもなく、罪人(つみびと)とされていた「障がい」ある人も、平等に神を讃美することができるようになりました。

 本来ならば、障がいの有無にかかわらずどんな人間も、その罪のゆえに神の前に立つことはできません。わたしたち信仰者にそれが許されているのは、キリストが今も神の右でとりなしの祈りをしてくれているからなのです。

 本当の奇跡は、障がいのある人が神殿で礼拝できるよう癒したこの日の出来事ではなく、万人を神の前に立てるようにしてくださった、キリストの十字架の死なのです。

誘惑される時マタイによる福音書4章1〜11から
そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。            (マタイによる福音書4章2-3)

主イエスは、断食して飢えていました。飢えは肉体の危機ですが、同時に精神をも不安定にします。魂が弱った時、それを見越したように誘惑する者=サタン(注参照)が現れました。

私たちもサタンにつけこまれるのは、思い煩いや、悩みの内にあるときなど、魂が弱った時なのかもしれません。そんな時、わたしたち自身の力によってサタンの誘惑に勝つことは出来ません。

そんな危機の状態の中では、ただ本当に強い存在である神に依りたのめるかどうかが、サタンに勝てるかどうかの分かれ目です。

注「サタン」 聖書では、すべての誘惑(神と人間の間を引き裂くこと)は、サタンによってされると考える。

勇気をもってマタイによる福音書8章1〜4から

一人の皮膚病を患っている人がイエスに近寄り・・・ (マタイによる福音書8章2節)

イエスに、一人の重い皮膚病の患者が近づきました。

実は、皮膚病を患っている人は、「健常」者と接する事が律法で禁じられていました。日常的には伝染を防ぐための措置ですが、宗教的には病気の原因がその人の罪だと考えられていたからでした。その人は、肉においても霊においても「穢れた」人とされていたのです

律法を犯して「穢れた」人が近づくことを、主イエスは積極的に受け入れました。この患者は、勇気を出してイエスに近づき、抱え込んでいた問題から開放されました。

わたしたちは、自分自身の中にある「罪」や「穢れ」を知っているがゆえに、聖なるものに近づくことに躊躇(ちゅうちょ)することがあるかもしれません。けれど、まことの神は進んで交わろうとする者を決して拒まれません。勇気を持って最初の一歩を踏み出すことで、すべてが解決に向かい始めるのです。その小さな一歩を踏み出す勇気で、神様が「わたし」を受け入れて下さるのですから。

「どちらを選ぶか」ルカによる福音書20章20〜26から

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。  (ルカによる福音書20:25)

主イエスのこの言葉は、わたしたちに聖と俗を区別して生きなさいと、言われているのではありません。聖と俗を区別しようとした時、私たちの信仰はこの世の生活とは何のかかわりも無い、空しいものになってしまいます。

後にイスラエルという名で呼ばれた族長<ぞくちょう>ヤコブは、ベテルで神と初めて出会ったとき、自分の居るまさにその場所に、主がおられることに気づかされました。わたしたちが聖書に生き方の規範を求めて生きるとき、この世の歩みもすべて神の領域のうちに置かれるようになるのです。

「何が聖で、何が俗なのか」客観的な基準があるのではありません。それを決めるのは、実はわたしたち自身の生き方なのです。

「ここも神の御国なれば・・・」(讃美歌90番)
『ガリラヤへ』マルコによる福音書16章1〜8から

あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。

     かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。(マルコによる福音書16章7)

十字架で殺されたイエスの体に、葬りの香油を塗るために墓を訪れた3人の女性に、一人の天使がキリストが復活されたことを告げました。天使は、弟子たちがどこで復活の主に出会うことができるのかを教えます。それは、ガリラヤでした。

ガリラヤとは、イエスや弟子たちの故郷でした。皆が生まれ、育ち、ずっと日常の生業(なりわい)を立てていた場所でした。

わたしたちの救い主は、きらびやかに飾られた聖なる宮で、わたしたちに拝まれるのを待っている方ではありません。苦しい現実の生活の場にこそ、主はいてくださるのです。日々の普通の生活の中で、救い主に出会うことによって、わたしたちはまことの救いを知るのです。

☆ヨハネ編(ヨハネ福音書、ヨハネの手紙、黙示録から)

『義人になれなくても』ヨハネの手紙T 3章19〜24から

イスラエルを指導し、神から「十戒」を授けられたモーセは、ほんの一瞬だけ神様を疑ったことがありました。神様は、そのゆえにモーセに約束の土地を見ることだけを許し、その地に足を踏み入れることは許されませんでした。旧約聖書で最も偉大な指導者であるモーセでさえ、信仰をまっとうできなかったのです。この事実は、わたしたちの自信を喪失させるかもしれません。・・・実は、旧約聖書に記された「救い」の限界がここにあるのです。

新約聖書のこの手紙の記者は、その限界を越えて、わたしたちを安心させてくれます。キリストイエスを信じ、愛のうちを歩んでいれば、もし心に責められることがあっても、神はわたしたちを恵みに導いてくださると、ヨハネは言うのです。モーセさえも守れなかった神の掟を守り通せないわたしたちのために、神のひとり子が十字架についてくださったからです。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。」

(ローマの信徒への手紙8章)

No Borderヨハネによる福音書四章1〜24から

この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

(ヨハネによる福音書4章21)

主イエスと、サマリアの女の会話です。この山とは、サマリアの人が神を礼拝する神殿のあるところです。

サマリアの神殿でも、ユダヤの神殿(エルサレム)でもないところで、神を礼拝するときが来ると、主イエスは言われます。それは具体的な場所や地名を指しているわけではありません。イエスの十字架による罪の赦しによって、ユダヤ、サマリア、そしてすべての民族の間に境界がなくなり、固有の聖地は必要なくなるということなのです。キリストによる救い、わたしたちの信仰とは、他者との違いを強調することによって結束してきた、古来からの人間の常識を超えたところにあるのです。

主イエスの言われた父を礼拝するところとは、教会のことです。特定の場所ではなく、信仰を持つ者が集まるところ。それが教会です。排除するためではなく、受け入れて一つになるための場所、それが教会なのです。

注)「サマリア人」 本来はユダヤ人と同じ民族で、同じ信仰を持つ人たちだった。紀元前8世紀に大国アッシリアの政策により、ユダヤと分断された。彼らの信仰の純潔性が失われたことから、ユダヤ人から忌避されたが、モーセ五書を正典としているなど、ユダヤ教徒の共通点も多い。

☆書簡編(ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙、他から)

 『その日を待つ』ヤコブの手紙5章1〜6から

  富んでいる人たち、よく聞きなさい。

   自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。(ヤコブの手紙5章1)

この聖句は財産の有無を問題にしているのではありません。聖書では、ダビデやアブラハムのように財産をなしていた人も、信仰深い人としてたたえているのですから。問題は財産の量ではなく、それを築いた人の生き方なのです。神の恵みとして多くの財産や名誉を与えられた人と、財産や名誉のために汲々として毎日を生きている人は、結果としては同じように財や名を残すかもしれませんが、神様の目から見ると、その生き方は正反対なのです。

主イエスはザアカイという取税人に救いを告げました(ルカによる福音書19章1〜10「行いと救い」参照)。彼は不正に蓄財していた人でしたが、キリストに出会い悔い改めました。その時ザアカイの家に恵みが来たと、キリストは言われました。

悔い改めというのは、難しいように思えますが、実はとても簡単なことでもあるのです。信仰者は皆、ほんのわずかな勇気で、たった一度悔い改めというジャンプをして、救いに入れられています。わたしたちは、その最初のジャンプから、いつでももう一度始めることができるのです。だから、ちっぽけな「わたし」が信仰者としてあり続けることができるのです。

先ず知られてガラテヤの信徒への手紙4章8〜11から

しかし、今は神を知っている、いやむしろ神から知られている・・・                    (ガラテヤの信徒への手紙4章9)

わたしたちがキリストを信じるようになったのは、熱心に聖書の勉強をしたからでしょうか。人よりも特に信心深い気持ちがあって、牧師の話に敏感に反応したからでしょうか。

そんなことは、決してありません。わたしたちは、自分がどこか人より優れたところ、他人と違ったところがあるから、クリスチャンになる「資格」が与えられたのではありません。わたしたちに納得できる理由などどこにもないのに、先ず神が私たちを選ばれただけなのです。

「人を義としてくださるのは神なのです。」(ローマの信徒への手紙8:33)

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